体罰論争と社会について
真面目に書く。書いておく。
発端はコレ。後で保存してyoutubeにも上げておこうと思う。
読むのめんどい人は太字と赤文字だけ読んでくれればおk。
地下鉄やバスの中で勝手気ままに振る舞う子どものことを中国では「熊孩子」といい、よく話題になる。昨日27日、バスの中で青年にちょっかいを出した「熊孩子」が反撃される事件が起きた。青年をやりすぎと非難する声もあるが、「痛快」「スカッとした」「少年は社会を学んだ」という反応も多い。 pic.twitter.com/8xdxX82LOj
— tachibana jin (@jin00001) 2018年4月28日
勘違いされないように書いておくけどコレはやりすぎ。強くてもビンタか裏拳ゴツンで十分。前後が分からんけど叩きつけ+踏みつけはオーバーキル。
で、本題に入るけど大前提として俺は体罰肯定派。体罰なしで社会は運用していけないと信じて疑わない。
社会の健全な運用にどうして体罰が必要なのか説明しておくよ。
(備考としてワイは未婚で子供を持ったことは無い)
例として例えば成人男性が成人女性をレイプした場合を考えてみよう。
然るべき罰を受けるべきだと思うよね?民事上、刑事上のね?
そらそうよ。誰でも分かるよね。
じゃあ次に5歳の少年が20歳の男性の手を蹴ってちょっかいをかけたとしよう。3回ほど
この時どう考えるか。この2人の問題ではなく社会の問題として考えるとすると
ここでキッチリ線引きさせておかないと5歳の少年は犯罪者予備軍になってしまう可能性があるわけよ。
これ以外のどこかで誰かに教わる可能性もあるけどね。
最終的にダメージ受けるの社会なのよ。この2人だけの問題で済まなくなってくるんよ。
たまに2ch(今は5ch)のまとめとかで見ることあるけど
・人の物盗んでおきながら被害者ぶったり
・勝手に人ん家の庭でBBQしてゴミ撒き散らしたり
こういう人間が出た時にさ、近くにいる人が迷惑すんの分かるよね?
仮にココ理解できないなら社会性の部分で問題あるから他行ってくれ。
近くにいる人への迷惑を未来に渡って最小化するための作業が、体罰なんだよ。
言葉を変えれば躾・教育。むしろ教養教育と言ってもいいわ。
体罰とは、その子自身に損させないため、そして社会全体の幸福度を損なわないために、必要に応じて行使する防衛手段である。
※ただ、程度の問題はある。そこは勘違いしないように注意しておくれやす。
体罰を絶対的な悪として語る連中がよく言う台詞に以下のようなものがある。
「こんな子供に大人が手を出すな!! PTSDになったらどうする!?」
これの何がアホって 1人の子供 >> 社会 だと考えているところ。
確かに弱いものは強いものが守ってやるべきだとは思うし現実そうなっている。
ただそれは社会の枠の中にいる時点での話。そこから外れたら社会の保護は受けられないどころか排除される。
今はそっから外れた時の話をしている。
「こいつが自分より小さい女の子殴って笑おうが店の物盗もうが黙ってみてんのか?」
という反論が成り立ってしまうんだよ。ここで黙るのはとても悪いことなんだよ。
「何があろうと子供には絶対に手を出すな!! 体罰は悪!!」って人間がいたら社会の敵、国民の敵だから排除するべきだと俺は思う。
更にここを掘り下げるなら、投げてみたい質問がある。
Q.なぜ俺達はこの年齢まで誰にも殺されること無く成長できたんだ?
A.社会が守ってくれたから
だろ?
正確には憲法や法律、家族などのシステムで守られ、国語算数etc.を教えられ、社会の一員となるべく育ててもらってきた。
ならば、社会の一員として、社会全体の幸福を損ねる要素を排除するのは当然の話じゃないか? もう義務のレベルで。
ここを放棄するやつは社会に属すことによる恩恵を受けるべきではない。排除されるべきだ。
大事なことだからもう一度書いておく。
体罰とは、その子自身に損させないため、そして社会全体の幸福度を損なわないために、必要に応じて行使する防衛手段である。
※ただ、程度の問題はある。そこは勘違いしないように注意しておくれやす。
おわり。